□〇〇三
報告書の提出に出たエリシアを見送り、ユーリは夕飯の支度を始めようと思っていた。
炊事はおおよそ自分がやっている。何度かエリシアに任せたこともあったのだが、少々切ない結果になってしまったので、炊事はユーリが率先してやっている。
調理開始からすぐに足りない材料に気が付き、ユーリは市街地へと買い出しに向かった。
「帰って来た時くらい、ちゃんとした物食いたいしな」
というのが、わざわざ買い出しへと赴いた理由だった。支給される食材は微々たる物で、むなしくなるような物しか作れない。これも問題だとは思いつつも、今の自分たちに改善策はない。
なので考えてもしかたがないと思うようにして買い物だけを済ませ、その帰り道だった。
「うん?」
「どなた様かと思ったら、噂の…………じゃありませんか」
路地裏から、下卑た声が聞こえてきた。複数男女の、何かを小馬鹿にするような笑い声も聞こえてくる。
「……はぁ」
ユーリは思わずため息をついた。エネスギア人たちが弱い物いじめをするのは珍しいことではない。
このまま見過ごしても問題はなく、むしろそれが正解だ。そのことはユーリもわかっている。しかし彼の性格がそれを許さない。
「おい、貴様らそこでなにをしている」
相手から逆光でこちらの姿が見えないことを確認すると、ユーリはそう、声をかけた。
案の定、エネスギア人たちはびくりとこちらを振り返った。
「こ、これは――」
「持ち場に戻れ。今は見逃す」
「はっ、失礼します!」
ばたばたと、数名が走り去り、ひとりだけがそこに残った。
身なりを見て、ユーリはさすがにぎょっとなってしまう。それは教会将校の法衣を着たエネスギア人だったからだ。
「え、あ、し、失礼しましたっ」
ユーリは慌てて敬礼をする。
見れば教会将校は中尉の階級。幼く見えるとは言え、教会将校となれば通常の中尉よりも立場は圧倒的に高い。エネスギア人となればなおのことだ。
自分は何かとんでもない勘違いをしてしまったのではない。エリシアごめん、俺はここで終わるかもしれない……と、ユーリはそんな覚悟を決めた。
だが――教会将校の少女は微かに潤んだ瞳をユーリへと向けた。そして肩と共に微かに震える声で言う。
「あの……」
「え?」
そのあまりにも弱々しい声に、ユーリは拍子抜けしてしまった。てっきり身のすくむような一喝か、鉄拳が来るかと思っていたくらいだったからだ。
「た、助かりました……」
「助かりました……って……?」
ユーリの頭上にはいくつもの疑問符が浮かぶ。彼女は自分より上の階級。しかもエネスギア人だ。そのエネスギア人が人間に対して助かったなど、言うはずもないことだからだ。
「あなたは?」
「は、はいっ。ユーリ=ファルシオン一等兵曹であります」
「ユーリ……」
ユーリの直感がこれは奇妙な出来事だと告げる。いち早く、この場から立ち去るべきだと。
「し、失礼します!」
「あっ」
一体なんだったのだろうか、あの教会将校は。そもそもにして、ユーリの知る教会将校は皆一様に、超が付くほど高圧的で傲慢だった。しかし彼女は違った。まるでおびえる小動物のような感覚もあり、不思議だった。
新手の懐柔策なのだろうかと、走りながらに考えたりもした。
だが、答えは出るはずもない。
宿舎の部屋に付くと、ユーリは体にびっしょりの汗をかいていることに気が付いた。
「……なんだったんだ」
気弱な教会将校など、奇妙意外の何者でもない。幽霊ほどに珍妙なものでもあり、不気味だった。
「風呂でも入って、忘れるか」
何か不思議な、言うなれば嫌な予感のようなものが体にまとわりついている気がしていた。
エネスギア人に比べ、人間は体内に貯蔵できる魔力量も、瞬間放出可能な量も少ないとされている。しかしながら、魔力に劣るからと言い直感力が鈍いというわけではない。
「何か起きないと良いのだけど……」
実際、ユーリやエリシアの育った地方では、直感力が重んじられた。鋭い直感力は極先の未来を見通すほどになると言われている。
ユーリとエリシアが苛烈で無謀な任務を生き残ったのも、先の戦闘で三〇〇の敵兵を相手に勝利できたのも、彼らの直感力は無視することはできない。
「できれば平穏に行きたいんだけどな」
ユーリが肩より少し深く湯船に浸かり込んだ時、外に人の気配を感じた。
敵意はない。
『ユ、ユーリ?』
「おぉ、エリシア帰ったのか、悪い、すぐに上がるよ」
報告書の提出が思いの外早く終わったらしい。エリシアのこの時間の帰宅は予想外だった。
『ううん、平気……』
エリシアの小声が悲しげに聞こえた。報告で何か言われたのだろうと察した。普通に終わらないのは毎度のこととは言え、慣れるものではない。
何か慰めの言葉を考えつつ、早くお湯を変わってやろうとユーリは湯船から立ち上がる。
すると。
「ユーリ!」
「うぉわっ!?」
不意を突くように風呂場の扉が開き、タオルだけを持ったエリシアが姿を現した。
自分は完全に全裸。
「なっ」
自分がいたことにエリシアは驚いているらしかったが、ユーリにはそれどころではない。
「お、おまっ、おま、な、なにを……!?」
「ユーリ!」
そしてあろうことか、エリシアはそのまま自分へと抱きついてきたのだ。
「うおぉおおおおどうしたエリシア!?」
なめらかで、柔らかなエリシアの肌が自分に触れると、全身を包み込まれるような錯覚を覚える。十分な弾力と体温が、ユーリの頭に一気に血を汲み上げ、彼女を抱きしめるようにと衝動が起こる。
だが、自分に強く「堪えろ」と言い聞かせ、所在ない両手をばたつかせるに留まりつつ、エリシアに問う。
「何かあったのか!?」
耐えきれない程の憤りなのか。それとも、正気を失うほどの悲しみなのか。あるいは想像も付かない苦痛なのか。
エリシアは震える声で話を始める。
「あ、あの、き、聞いてユーリ。わたし、今日こそ、どうしてもその……伝えたくて」
やはり何かあったのだろう。
こういう時は冷静に聞いてあげたいと思うユーリなのだが、裸で抱きつかれているという状況がユーリの冷静を容赦なく奪っていく。
「お、おおおおおおう、ど、どどどどどどどうした?」
「えっとね、わたし……ユーリが――」
自分を見上げていた、微かに潤んでいるエリシアの瞳がつーっと下を向いていく。
「………………ん、んん?」
その先にあるのはエリシアの大きな胸の膨らみ。それを超えれば、ユーリの……だ。
エリシアの眼に入ったのは、まさにそれで。
「なっ、に、こっ……れ……」
ひどくおぞましい物でも見るかのような、失敗した作戦で散り散りになって逃げる友軍を見たような、とにかく怯えとも恐怖とも絶望ともとれるような声を、エリシアは漏らした。
しかし――。
「な、何をと言われましても……まぁ……うん」
どう説明をすれば良いものか。
知識だけならばエリシアも知らないはずではないと思うだが、何と言えば良いのだろうか。そもそもどうしてこうなっているのだろうか。
瞬間で様々なことがユーリの頭を埋め尽くしている中、
「ふぁあああっ……」
エリシアの瞳から生気が消え、ぐらっと体から力が抜け落ちていった。
「おぉっと」
そのまま後ろへと倒れてしまいそうになるエリシアの背中を片手で支える。
どうやら気を失ってしまったらしい。
「まったく……うちの隊長は何をしたかったんだか……」
一糸まとわぬエリシア。気を失ってしまっては彼女の体はあまりにも無防備になっている。しかしユーリにはそんなエリシアの姿を見ようと思う趣味はない。
「まいったな」
困惑しつつ、空いている方の手で頬を掻いてしまう。
支えている方の手にはしっかりと、エリシアの柔らかさと体温を感じる。
幼い頃から一緒にいるとは言え、最近ではエリシアの女性らしい変化には気が付いていた。それをこうも間近で見てしまうと、ユーリとしても平静でいるのは難しい。
しかし意識のない彼女をどうこうするほどにユーリは非道ではない。
エリシアを倒さないように気を遣いつつ、落としたタオルを拾ってエリシアの胸の上にかける。しばらく、真っ白い肌の豊かな膨らみが呼吸で上下する様に見入ってしまったが、ユーリは首を振って正気を保つ。
「おいっ、エリシア」
声をかけてみるものの、反応はない。
仕方なく、膝裏に手を入れて横抱きにする。
小柄なエリシアはそう重くはないのだが、とにかく――。
「や、柔らかい……」
普段長銃を扱い、屈強な帝国兵をなぎ倒しているとは思えないほどに柔らかい。
まだ二ヶ月ほどではあるが同じ部屋で寝泊まりをしていると、それは彼女を強く「女性」と意識しないわけはないのだ。
精神修行だと思うことにしていたが、このようなことがあってはさすがに俺もどうにかなるぞと思いつつ、ユーリは風呂場からエリシアを運び出した。
それにしても、とユーリは思う。
嫌な予感とはこれのことだったのだろうか、と。たしかに驚きはしたものの、別に嫌というわけではない。自分がエリシアの入浴中に風呂場に押し入ったのなら、刺されようが焼かれようがされても文句は言えない。
しかし今回の件はエリシアの乱入だ。
「それに……み、見てしまったしな……」
意図せずに見てしまったエリシアの裸体は、忘れたくても不可能なほどに綺麗であった。少しでも気を抜くとそればかりを考えそうで、ユーリは困惑している最中でもある。
とにかく寝室に運ぼう、そう思い寝室の前まで来た瞬間、部屋のドアが不意に開いた。
ユーリは思わずエリシアを庇うように身構え、ドアからの侵入者に鋭い声を投げる。
「だれだっ!」
するとドアの間から現れたのは、あの教会将校だった。
「え、あ……」
「あの……声はかけたのだけど返事がなくて。ユーリ=ファルシオン? もしかしてお取り込み中……かな?」
「あっ……」
自分は素っ裸。そして裸のエリシアを横抱きにしている。
これでは、言い逃れはできない。しかも相手は規律にうるさい教会将校。
嫌な予感とはこれだったのかと、ユーリは本日二度目くらいになる覚悟を決めることとなった。
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