【〇二一】
「ぐっ……」
呼吸が苦しいのは、胸を貫かれたせいだとすぐにわかった。
震える右手で胸に触れると、そこにはべっとりと血がついている。体の感覚が鈍く、失血のせいで早くも視界が霞んで来ている。
チェロリダ村から落ちた時とは比べものならないほどに体が重い。
「ユーリ、ユーリ!」
すぐそばで怒鳴るように言うエリシアの声も遠く聞こえる。
「くっ、う……ごふっ、がはっ!」
喉を逆流する血を吐き出し、ユーリは自身の重傷さを思い知った。
胸に受けたあの魔法の矢が三つ。左腿にも受けている。矢はすでに消えているが、そこにはぽっかりと穴が穿たれてしまっていた。
その穴からは止めどなく血が流れており、もたれかかったエリシアを汚してしまっているのがなぜか気になった。
エリシアすまない、そう声に出そうと思っても、ろくに声が出ない。
「エ、ア……」
「喋らないで!」
エリシアはユーリの腕を取り、倒れないように体を支える。
「ルーミア! こっちを守って! ユーリが!」
それは悲鳴のように、ユーリには聞こえた。
「わかった。ユーリをお願い……!」
返るルーミアの言葉は、どこか切迫しているように聞こえる。
「あ、お、俺……」
「黙ってて。今、前線を離れたら止血してあげるから」
声が遠い。足の感覚もない。
「エリシ……剣を……さ、鞘に――」
「入れるのね、わかったから」
右手で掴んでいたティリシュベルトを取り、エリシアは鞘に収めた。もう一方の輝石剣は鞘に収められている。この時ばかりは、剣の重量を大きな負担と感じてしまう。
「大丈夫よ、大した怪我じゃないから落ち着いて。すぐに元通りよ。あなたがこんなところでやられるわけないじゃない。だから大丈夫。大丈夫だから」
「あ、あぁ……」
励ましに対してそう答えたが、ユーリにはエリシアの涙が見えた。励ましてはいるものの、エリシアから見る自分の状況がどうなのか、ユーリは知ることができた。
体の感覚の薄さと出血の量、声も出せない状況からして、自分の受けた傷は致命傷だと、ユーリは悟った。
だから力を振り絞り、エリシアに伝えたいことを声に出す。
「逃げろ」
「え?」
「俺を、置いて、逃げろエリシア」
「何を言ってるのよ……」
エリシアの声が震えた。
「そんなことできるわけないでしょ。あそこまで行ったら止血してあげるから、それまで――」
「もう、駄目、だ。俺を置いて、ルーミアと……逃げろ……」
破滅獣は他にもどんな手を隠しているのかわからない。相手はやはり伝説の破滅獣だ。そう容易く勝てるなどと思ったことが間違いだったのだと、ユーリは思っていた。
「逃げるならあなたも一緒でしょ」
「ごめん、エリシア」
ユーリは自分でも驚くほどに情けない、か細い声しか出なかった。
そこでぶつりと、ユーリの意識は途切れる。
「ユーリイィイイイイ!」
戦場においてはそう珍しくはない、それは悲痛極まりない叫び声。
ルーミアはその声を聞き、何が起きたのかを察してしまった。
「…………」
パッと見た時、ユーリの傷は見た目にもわかるほどの深傷。初めて見るほどの出血量だった。応急処置程度でどうにかなることではないくらい、ルーミアにもわかった。また、かつてあったとされる治癒の魔法をエリシアが使えるということもないと、ルーミア思っていた。
ずきりと胸の奥に何かが刺さったような感覚に見舞われた。
「ユーリ……」
ふと、体の力が抜けそうになる。――が、そうはできない。
ユーリはおそらく、死んだのだろう。今はまだ実感が薄い。だけど、それが今の戦いを止める理由にはならない。
「わたしは――」
死んでも良いと思っていた。だけど、今は違う。
エリシアと話をした時の気持ちはまだ揺るがない。まだ生きたいと思う。それにエリシアにもまだ生きて欲しいと思う。
楽なことだけではないだろう。辛いことも多いかもしれない。戦場で生き残るのは難しいことで、ふとした瞬間に簡単に死んでしまうものかもしれない。
だけど。
「諦めない……」
ルーミアは魔導杖を握る。そして走った。
エリシアの元へと。
「む、召喚士どこへ行く!」
すると近くで大剣を振るっていたガブリアスが声をかけてきた。
「ユーリが大変なの」
「先ほど魔法を受けたのは見たが……致命傷となったか」
ガブリアスは手近にパルアを呼び寄せ、破滅獣の触手を凌いでいた。途中毒霧による攻撃も受けたが、ガブリアスは魔法の防壁でそれを防いでいたのだった。
「致命傷の……その先かもしれない」
「……我が好敵手に限り、ここで命を落とすなどは許さんと伝えろ。我らが雌雄を決するのは互いの死闘の果てだとな……くっ!」
破滅獣を相手取り、ガブリアスもあまり余裕がない。
「伝えられたら、伝えておく」
そう残し、ルーミアは再び走り出した。
周囲を見る。
破滅獣はガブリアスとパルアに気を取られ、動きを止めている。このふたりも相当に強いとルーミアは思った。
そしてギルギレイア人たち、里の衛兵だろう。その者たちが里を出て来て魔物へと応戦をしていた。戦場の規模は思ったよりも大きいが、状況は優勢とは言い難い。里へ魔物が流れ込むのを辛うじて抑えている、という状況だった。
その戦場の真ん中。そこにエリシアと、ユーリがいる。
倒れたユーリにすがりつくように、エリシアはしゃがみ込んでしまっていた。
そんなエリシアのそばへと駆け寄るなり、ルーミアは普段よりも大きい声で彼女を呼んだ。
「エリシア」
「ユーリが……あぁ……ユーリがぁ……」
エリシアがルーミアへと向けた顔は、それは酷い泣き顔だった。
「ユーリが……し、し、死んじゃったよぉ……」
「……ユーリ」
ルーミアは胸から何かが飛び出しそうな感覚に襲われ、ぎゅっと胸を押さえるように手を当てた。
咄嗟に出て来た言葉。
「――偉大なる七守護神、この英雄の魂が偉大なるマールセルフィリアの元へと召されますように」
それは死者へと向ける祈りの言葉だった。
「ルーミア……! 何とかして!」
「エリシア?」
半狂乱――そんな声をあげたエリシアはルーミアへと飛びついていた。
「エネギアス人でしょう!? ユーリを助けて! 魔法でも召喚でも――何でもして! 偉大なる召喚の力は何でもできるって言うじゃない! ユーリを今すぐ生き返らせて!」
「エリシアそれは……」
「どうしてユーリが死なないといけないの! なんの意味もなくなっちゃうじゃない! ルーミア、ルーミアお願い! ユーリを助けて!」
「それは――」
人を生き返らせること。
それはいかなる魔法、召喚をもってしても不可能ということをルーミアは知っていた。
「何が七守護神よ! マールセルフィリアにどんなに祈ったって……祈ったって……こんなんじゃ……こんなんじゃ何にも……」
エリシアはルーミアに抱きつき、思い切り大声を上げて泣き出した。
戦場の真ん中において、エリシアは完全に戦意を消失している。
「エリシア……」
「あぁ……うああああああ!」
ふたりの仲がどれほどであったかは、この短い間にルーミアも良く知ることができた。
それは自分の中にあるどんな感情や記憶よりも深く、大切なものであることが今のルーミアにはわかった。
自分が生きることを諦めなくないのと同じように、エリシアも諦めなくないのだ。ユーリのことを。
だが、ルーミアが見る限りユーリはこちらを庇って致命傷を受けた。言うなれば、身を投げ出して自分とエリシアを守ってくれたことになる。ユーリもまた、エリシアと自分を救うということを諦めなかったという結果だとルーミアは思った。
だから――。
「聞いてエリシア」
「あぁあああああっ!」
泣き叫ぶエリシアを引き剥がす。エリシアは誰の目を気にすることもなく、酷い泣き顔に拍車をかけていた。
「エリシア!」
そのエリシアの頬を、ルーミアが叩く。
「ル、ルーミア」
エリシアは泣き叫ぶのを止めた。
「しっかりして、エリシア」
「だって――ユーリが……あぁああっ」
一度は止めたものの、エリシアは再度泣き出してしまう。ショックのあまり、ここが戦場の真ん中、さらには破滅獣の近くであるということも忘れてしまっているかのように。
「あなたはなんとも思わないの!?」
八つ当たりのように、エリシアは悲鳴のような声でルーミアに言う。
「そんなことはないよ」
「じゃあどうしてそんなに普通でいられるのよ!」
「普通……」
普通と言われ、ルーミアは困惑した。果たして、自分は普通なのかどうか。
でもおそらく――。
「ごめんなさい。わたし、普通じゃないから、普通でいるように見えるのかも」
「ルーミア……」
「わたしだって……こんなこと認めたくない。可能なら何とかしたい。その気持ちはあなたと変わらない」
「なら……放っておいて。わたしは、もういいから」
エリシアは力なく肩を落とす。まるで、生きる気力も一緒に落とすかのように。
それは諦めだった。
「……諦めないで」
ぽつり。エリシアにも聞こえないような小さい声でルーミアはつぶやいた。
諦めてはいけない。それを知ったのはユーリと、エリシアに出会ってから。
だからそのエリシア本人が、諦めてはいけない。ルーミアはそう思った。
「聞いて、エリシア」
「放っておいて」
エリシアはルーミアから顔を背け、ユーリを見ている。
「エリシア」
そんなエリシアの肩を掴み、ルーミアは少し乱暴に、無理矢理にエリシアの体を自分の方へと向ける。
「やめてよルーミア」
話なんか聞かない。エリシアの表情は露骨な程にルーミアを拒絶していた。
だが、ルーミアは続ける。
「聞いてエリシア。ユーリはあなたを守るために身を投げ出した」
「わたしなんかのために――」
「なんかじゃない。ユーリはあなたを大事に思っていたからだよ」
「ユーリ……」
エリシアはユーリを見る。ユーリの顔は血と土で汚れているが、目を閉じていた。
「エリシア、生きるのを諦めないで」
「でもユーリが――」
「それは後でゆっくり考えて。里にもあの大きいのが迫ってるよ。今は戦闘を投げ出していい時じゃない」
「だって――」
「エリシア=ヴァイツ。共和国の軍人なら任務を遂行しなさい。ユーリだってそのために動いたんだよ。それを思い出して」
「ルーミア……」
ルーミア自身、それは教会将校らしい言葉だと思った。エリシアの今の気持ちを汲んでいない言葉だと。だが、このままエリシアが戦意を失ったままでは彼女までもを失いかねない。
「……ごめんなさい。ルーミア、ユーリ」
エリシアは手の甲で乱暴に涙を拭うと銃を杖のようにして立ち上がる。
「足が震えてて……」
「動ける?」
「だ、大丈夫、だと思う」
「なら良かった。ユーリを里まで連れて行ってあげて。そこからあなたが戻るまで、わたしがなんとかここを食い止めておくから」
「……わ、わかったわ」
エリシアはユーリの腕を肩に回し、体を引き起こした。そして足先を引きずりながら里の方を目指す。
「……わたしも諦めない」
そんなエリシアとユーリの背中をちらりとだけ見て、ルーミアは魔導杖を握り直した。
この場は何としても、抑えきらなければならない。
ユーリを担いだエリシアが歩き始めた頃。
「コォォォォアアアア!」
ユーリを襲った魔法を、破滅獣が放っていた。
「くっ!?」
それはパルアに向けられていた。
「パルア!」
ガブリアスが叫んだのはすでに矢が投射された後。矢の一本がパルアの腕をかすめていた。
「大丈夫か?」
「ご心配ありがとうざいます。ご覧の通りのかすり傷です。……が、先に一度見ておかなかったらと思うと……」
「この矢の魔法、恐ろしいのはその狙いと速度だな。あの銃士の銃並の正確さだが、矢の速度は銃弾よりも速いぞ」
「はい、予兆を察知しなければ確実にやられます」
「さすがは破滅獣と言ったところだな。――しかし行動の制限もあるようだな、こいつ」
「と言いますと?」
「あの重力を操るような魔法とこの矢の魔法は同時に使えないのだろう。同時に使えればそれを使い、我らを確実に仕留めているはずだ」
「なるほど、さすがガブリアス様です。ですがこれ以上は無益な戦いと思われます」
「パルア?」
「『戦渦の三凶星』のひとりが欠け、ギルギレイア人の里を発見した今、ここで我々が前津獣の相手をする意味は薄れたとわたしは判断します」
「た、たしかにそうだが……」
「それにもしこの先、ガブリアス様があの双剣士のようなことになれば――そう思えば、ここは撤退しかありません」
「だ、だが――」
「失礼!」
撤退を渋るガブリアスに近づき、パルアは軽々とガブリアスを脇に抱えた。
「なっ、何をするパルア!?」
「これもあなた様のため……い、いえ、帝国のため! ここはこの無礼をお許しくださいませ、ガブリアス様!」
破滅獣の触手が追いかけてくる中、パルアは走った。
小脇に抱えられながら、ガブリアスは思う。
たしかにパルアの言う通り、ここで破滅獣と戦った所で相手の素性が完全にわからない今は不利。ここは撤退して本国に情報を持ち帰るのが上策だと。
だがガブリアスはなぜか後ろ髪を引かれる思いがあった。あの双剣士、ユーリは本当に死んだのだろうか、と。幾多の激戦を越え、屈強な帝国の兵たちの恐怖を与えた存在がこうもあっけなく死ぬのだろうかと。
「パルア降ろせ!」
「なりません!」
「くっ、俺は確かめねばならんのだ! あの者が本当に死んだのかどうかを! もし死んでいたとしても俺は認めんぞ……そう容易く死なれてたまるものか!」
ガブリアスのそんな叫びが、谷底にこだました。
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